2011年 07月 10日
真実と事実は違う |
たまには日々の雑感を。
ジャーナリズムは真実を伝えること、だと思っていた。だが、3.11以降の日本のメディア(マスメディアだけではなく独立系のジャーナリストも含む)が発する報道を見聞きするにつけ、それがいかに形骸化しているかを感じている。それはいみじくも音楽批評にも通じるもので、些末なことのようで実はそうでないのだが、そのことについてはここでは棚上げしておく。それ以上に大事なことがおろそかにされているからだ。
いったいどれほどのジャーナリストが真実は事実と異なるということを、事実のデータ的な集積(あるいは断片)が必ずしも真実に成り得ないことを、意識しているのだろうと疑問に思う。確かに福島原発に端を発する放射性物質による汚染問題は大きい。だが、感情的に反応している人が多すぎるような気がしてならない。それが一般市民の反応であれば理解できる。しかし、ジャーナリストならば、いったん感情を抑えて、冷静に多角的な検証をした上で物事を語る姿勢が必要だろう。原発問題に関して言えば、放射性物質というやっかいなものについて語るにはそれなりの科学的知識が必要だということが、それを難しくしているのかもしれない。そうとはいえ、感情が先走っている記事や科学的な理解不足の記事を目にすることが多すぎる。
ネット上には流言飛語が跋扈している。マスメディアが真っ当な情報を発していないゆえにそれが増幅されているように思う。マスメディアが流す「大本営発表」をにわかに信じられない人々は、私も含めてネット上からさまざまな情報を得ようとする。だが、これもまた玉石石石石混交なのだ。データそのものは事実だろう。しかし、それをどう解釈するかによって白が黒にもなり得ることに気がつかない人が少なくないことも確かである。統計の読み方もしかり。また、言葉尻だけを捉え、それに反応したテキストが多すぎるので、結果的にはそれに翻弄されることになる。
そこでふと思った。科学ジャーナリストというのはいないのかと。ネット上で(twitterも含め)さまざまなことを伝え、人々の疑問に答えようとしてしている科学者もいる。だが、科学者というのは(技術者もそうだが)、その立場でしか物事を語れない。ある分野のジョーシキは一般の人から見ればヒジョーシキだったりすることも間々あるように、数字の解釈や統計の読み方と同様、その言葉が一般の人々に上手く通じないこともあるだろう。ならば、彼らの見解あるいはコトバをわかりやすく一般大衆に伝えるようなジャーナリストがいてもいいのではないか、と思った次第である。(本題とは関係ないが、ゆとり教育以降は中高での科学教育がダメになってしまったような気がしてならない) どうやらそのような人はいることがわかったが、果たして彼らの出番は確保されているのだろうか。放射性物質による汚染問題は、人々の健康や生活に直に関わる問題であるが、メディアは自身に課せられた責務をどの程度真摯感じているのだろう。キャッチーな言葉で販売部数を上げることを優先するような雑誌やあきらかに記者(ライター)の科学的知識が不足しているなと思える記述に遭遇するだけに余計そう思うのだ。震災でジャーナリズムまで壊れてしまったとは考えたくないが…。
原発について言えば(私は脱原発の立場だが)、それがいかに込み入った問題であるかもヒシと感じた。単なる利権云々だけではなく、覇権、あるいは国際情勢とも密に関わっているような気がしてならない。ゆえに書生的っぽい論調には時に違和感を覚えてしまうのだ。今は脱原発へ国策を転じるチャンスなのだが、その書生気質が逆に脱原発への道の足を引っ張りかねないということにも、活動家は気づいていないのではないかとさえ思うことがある。
とはいえ、人は衣食住だけでは生きていけないということもまた改めて感じた。日常生活における無駄は貴重なのである。音楽や芸術もしかり。なくても生きてはいけるが、どこかムナシイ。それがいわゆる「芸術」であろうと「エンターティンメント」であろうと、必要とされているのである。
少し前、なにげなく引っ張りだした長谷川如是閑の評論集は、関東大震災後に書かれたテキストから始まっていた。如是閑といえば、「断じて行わず」を座右の銘にしていたとよく書かれているが、大山郁夫らと雑誌『我等』を創刊している。最初にその一冊(祖父が購読していたので実家にあった)を手にした時に、エスペラントの項があったのが不思議だった。今にして思えば、当時の日本のインテリの意識は今よりも開かれていたのかもしれない。そしてジャーナリスト魂も。
追)真実とはtruth、事実はfactということです。
ジャーナリズムは真実を伝えること、だと思っていた。だが、3.11以降の日本のメディア(マスメディアだけではなく独立系のジャーナリストも含む)が発する報道を見聞きするにつけ、それがいかに形骸化しているかを感じている。それはいみじくも音楽批評にも通じるもので、些末なことのようで実はそうでないのだが、そのことについてはここでは棚上げしておく。それ以上に大事なことがおろそかにされているからだ。
いったいどれほどのジャーナリストが真実は事実と異なるということを、事実のデータ的な集積(あるいは断片)が必ずしも真実に成り得ないことを、意識しているのだろうと疑問に思う。確かに福島原発に端を発する放射性物質による汚染問題は大きい。だが、感情的に反応している人が多すぎるような気がしてならない。それが一般市民の反応であれば理解できる。しかし、ジャーナリストならば、いったん感情を抑えて、冷静に多角的な検証をした上で物事を語る姿勢が必要だろう。原発問題に関して言えば、放射性物質というやっかいなものについて語るにはそれなりの科学的知識が必要だということが、それを難しくしているのかもしれない。そうとはいえ、感情が先走っている記事や科学的な理解不足の記事を目にすることが多すぎる。
ネット上には流言飛語が跋扈している。マスメディアが真っ当な情報を発していないゆえにそれが増幅されているように思う。マスメディアが流す「大本営発表」をにわかに信じられない人々は、私も含めてネット上からさまざまな情報を得ようとする。だが、これもまた玉石石石石混交なのだ。データそのものは事実だろう。しかし、それをどう解釈するかによって白が黒にもなり得ることに気がつかない人が少なくないことも確かである。統計の読み方もしかり。また、言葉尻だけを捉え、それに反応したテキストが多すぎるので、結果的にはそれに翻弄されることになる。
そこでふと思った。科学ジャーナリストというのはいないのかと。ネット上で(twitterも含め)さまざまなことを伝え、人々の疑問に答えようとしてしている科学者もいる。だが、科学者というのは(技術者もそうだが)、その立場でしか物事を語れない。ある分野のジョーシキは一般の人から見ればヒジョーシキだったりすることも間々あるように、数字の解釈や統計の読み方と同様、その言葉が一般の人々に上手く通じないこともあるだろう。ならば、彼らの見解あるいはコトバをわかりやすく一般大衆に伝えるようなジャーナリストがいてもいいのではないか、と思った次第である。(本題とは関係ないが、ゆとり教育以降は中高での科学教育がダメになってしまったような気がしてならない) どうやらそのような人はいることがわかったが、果たして彼らの出番は確保されているのだろうか。放射性物質による汚染問題は、人々の健康や生活に直に関わる問題であるが、メディアは自身に課せられた責務をどの程度真摯感じているのだろう。キャッチーな言葉で販売部数を上げることを優先するような雑誌やあきらかに記者(ライター)の科学的知識が不足しているなと思える記述に遭遇するだけに余計そう思うのだ。震災でジャーナリズムまで壊れてしまったとは考えたくないが…。
原発について言えば(私は脱原発の立場だが)、それがいかに込み入った問題であるかもヒシと感じた。単なる利権云々だけではなく、覇権、あるいは国際情勢とも密に関わっているような気がしてならない。ゆえに書生的っぽい論調には時に違和感を覚えてしまうのだ。今は脱原発へ国策を転じるチャンスなのだが、その書生気質が逆に脱原発への道の足を引っ張りかねないということにも、活動家は気づいていないのではないかとさえ思うことがある。
とはいえ、人は衣食住だけでは生きていけないということもまた改めて感じた。日常生活における無駄は貴重なのである。音楽や芸術もしかり。なくても生きてはいけるが、どこかムナシイ。それがいわゆる「芸術」であろうと「エンターティンメント」であろうと、必要とされているのである。
少し前、なにげなく引っ張りだした長谷川如是閑の評論集は、関東大震災後に書かれたテキストから始まっていた。如是閑といえば、「断じて行わず」を座右の銘にしていたとよく書かれているが、大山郁夫らと雑誌『我等』を創刊している。最初にその一冊(祖父が購読していたので実家にあった)を手にした時に、エスペラントの項があったのが不思議だった。今にして思えば、当時の日本のインテリの意識は今よりも開かれていたのかもしれない。そしてジャーナリスト魂も。
追)真実とはtruth、事実はfactということです。
by kazuey1113
| 2011-07-10 13:00
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