2010年 06月 19日
スイング・ジャーナル休刊に際して思ったこと |
出かけたついでに本屋に立ち寄ったら、スイング・ジャーナル7月号が平積みになっていたのでパラパラとそのページをめくってみた。巻末に7月号で休刊とは書かれているものの粛々とそれまでと全く変わらない紙面構成。47年創刊で63年間続いた雑誌が休刊するということを何も感じさせず、このまま永遠に続くかのようなかわり映えのしないトピックスばかり。これでは、感慨のひとつも浮かんでこない。編集者は危機感のカケラも持っていなかったのだろうか、と疑ってしまう。だが、スイング・ジャーナルの休刊はとても象徴的な意味合いを持つ、と私は思っている。
その最たる理由は、ひとつのビジネス・モデルの崩壊である。SJは国内のレコード会社などからの広告掲載で収入を得てきた。そして、当然のことながらそこでリリースされるCDのアーティストを中心に取り上げてきた。日本で輸入盤の入手がそう簡単ではなかった時代には、国内盤のリリースをくまなく伝えるということは聴き手にとっても意味のあることだっただろう。だが、輸入盤も個人が直接海外から入手できる今となっては、国内盤をくまなく紹介したところでもはや大して意味はないのである。だいいち海外でリリースされたCDと全く同じものを日本語ライナーノートがついているという違いだけで国内盤としてリリースする意味がどれほどあるのか疑ってしまう。既にジャズファンは人それぞれインターネットを通じて必要な(必要と思っている)情報のある程度は入手しているだ。あえて分厚い雑誌(SJはおそらく世界一分厚い、重量のあるジャズ雑誌だった)を買う必然性がないことをファンは既に気付いているのだ。
SJのような音楽雑誌が扱う記事はかなり限定されている。SJでメインとなっていたのはCDリリースに伴う記事、レビューだろう。他にもミュージシャン・インタビューとかフェスティヴァル・レポートなどもあるが、これらも多少なりともCD販売と結びついたものだったことは否めない。コラムもまた然り。だが、ここでCD販売数が落ちてきた。それはそうだろう。ダウンロードも増えたが(とはいってもジャズはまだ少ないだろうが)、なによりも自主制作も含めるとリリース・アイテムの数は世界的に間違いなく増えている。それなれば、1アイテムあたりの販売枚数は必然的に減る。だが、CD制作コストがかなり低くなっているのでミュージシャンは自主制作も含めてCDをどんどん出すようになった。これではレコード会社も広告宣伝に費やす金額も減額せざる得なくなる(減額したいと思う)のは必然。となれば、広告宣伝費に頼っていた雑誌にとってはツライ現実と向き合うことになる。
取り上げる記事も業界密着型なのはビジネス上必要だったことは理解する。そういう意味では国内のレコード会社がどのような戦略(?)でどのようなターゲットにどのようなCDを販売しようと考えているのかわかるという意味では面白い雑誌だった。しかし、「ガラパゴス化」しているSJに代表される日本のジャズ業界人と違って、音楽ファンはもはや上意下達的な情報は欲していないということである。また、音楽受容のありかたも変化していて、CD以外のメディア、しかも無料で利用できるメディアの台頭も著しい。音楽情報をCDを中心に捉える時代はもはや終わったのではないか。
そうなれば残るのは音楽そのものである。ジャズ自体も多様化、多極化しているのである。アメリカやヨーロッパのある部分だけを見ていても動勢なんてわかりっこない。ジャズはそんなフラットな音楽ではないのだ。ヨーロッパは陸続きだからなにかと繋がっている反面、地域性も濃い。その面白さをどうして伝えないのだろう。違っているということは、それはそれで面白いということがわかれば、と思う。好き嫌いはそれからのこと。
しかし、グローバルに世界中どこでも繋がるこのご時世とは相反して、ひとりの人間が聴く音楽は逆にどんどん狭く狭くなっているような気がしてならない。ある種の好みだと思っている音に類似した音、似たような音ばかりを聴くようになってはいないだろうか。かつてはラジオを聴く人も多かった。なにげなくオンエアされる雑多な音楽を聴くなかで自らの好き嫌いも自覚していったのではないだろうか。かつては特に意図しなくても様々な音楽に接する機会があったのである。しかし、現在は「聴こう」と思ってアクションを起こさないと音楽は耳に入ってこない。これはこれで問題である。このような構造変化にどのように対応すべきなのだろう。日本では沖縄のような地域はともかくローカルな場でそのコミュニティと音楽との結びつきはもはや希薄であり、町興し的な音楽イベントは頑張っているところもあるが、まだまだ住民に根付くまでに至っていないような気がする。
はじめてヨーロッパのジャズ祭に行った二十数年前にいちばん感じたのは、聴衆がとても自然体で音楽を「楽しんでいる」ということ。ライブに行ってもジャズ、とりわけフリー系、即興音楽となると、構えて体を硬くして聴いているのがわかるようなことが多かったので、これはカルチャー・ショックだった。いつからこうなったのだろう、と思う。音楽を楽しむのではなく、オベンキョウしているようない雰囲気、それでは音楽を理解できなくなってしまう。聴いていてシンドクはないのだろうか。リラックスして心を開いて聴く、まずそこから始まるのに…。
話はややズレたが、このような現状のなかで印刷媒体としてのいかに生き残るか、ビジョンとストラテジを立て直さなかった(そもそもなかったのかもしれない)ことがSJが休刊となった大きな要因だろう。ネットメディアはもはや定着し、どんどん更新されている。その中で印刷媒体としての意義もまた見出すことは不可能ではなかったと思うし、その役割はまだまだ残っているように感じるのだ。それにしても「読み物」として面白い記事、しっかり書かれたレビュー/レポートは音楽雑誌では意外と少ない。ある程度知識があることを前提に情報伝達を中心にライターも書いているからだろう。また、ニューアカの時代はとうの昔に終わっているにもかかわらず、思想について語るのではなく音楽について語るのに現代思想のタームを持ち込むことが一般的にどれほど説得力を持つのだろうと思うこともある。
現在は情報がいとも簡単に入手できると人はいう。しかし、それが出来るのは実はそれなりの技を持った人達だけなのであることに意外と気付いていない。与えられる情報が量的にどんどん増える一方で、その取捨選択がきちんと行われなければどんどん情報自体がフラットになってしまうのである。つまり、情報入手が容易ではなかった数十年前と個人が受け取る情報量は大して変わらず、その偏りによってどんどん偏向性が気がつかないままに助長されていっているように思う。情報の公共性、それは今一度見直されてしかるべきと考える。「個人」云々いう人もいるが、公共性の確立と個の自覚は実は密接に繋がっているだろう。その「個」がぼんやりしているのが、よくも悪くも日本人なのである。
と、ついとりとめもなく長々と書いてしまった。それにしても梅雨は苦手だ。そういえば日本文学の妙に湿った感じもあまり好きではない。だが、意外と古典だとしっくりくるのもあるのはなぜだろう。大陸的カラカラ人間にはツライ季節である。せめてエアコンの除湿機能をフル活用することにしょうっと。
その最たる理由は、ひとつのビジネス・モデルの崩壊である。SJは国内のレコード会社などからの広告掲載で収入を得てきた。そして、当然のことながらそこでリリースされるCDのアーティストを中心に取り上げてきた。日本で輸入盤の入手がそう簡単ではなかった時代には、国内盤のリリースをくまなく伝えるということは聴き手にとっても意味のあることだっただろう。だが、輸入盤も個人が直接海外から入手できる今となっては、国内盤をくまなく紹介したところでもはや大して意味はないのである。だいいち海外でリリースされたCDと全く同じものを日本語ライナーノートがついているという違いだけで国内盤としてリリースする意味がどれほどあるのか疑ってしまう。既にジャズファンは人それぞれインターネットを通じて必要な(必要と思っている)情報のある程度は入手しているだ。あえて分厚い雑誌(SJはおそらく世界一分厚い、重量のあるジャズ雑誌だった)を買う必然性がないことをファンは既に気付いているのだ。
SJのような音楽雑誌が扱う記事はかなり限定されている。SJでメインとなっていたのはCDリリースに伴う記事、レビューだろう。他にもミュージシャン・インタビューとかフェスティヴァル・レポートなどもあるが、これらも多少なりともCD販売と結びついたものだったことは否めない。コラムもまた然り。だが、ここでCD販売数が落ちてきた。それはそうだろう。ダウンロードも増えたが(とはいってもジャズはまだ少ないだろうが)、なによりも自主制作も含めるとリリース・アイテムの数は世界的に間違いなく増えている。それなれば、1アイテムあたりの販売枚数は必然的に減る。だが、CD制作コストがかなり低くなっているのでミュージシャンは自主制作も含めてCDをどんどん出すようになった。これではレコード会社も広告宣伝に費やす金額も減額せざる得なくなる(減額したいと思う)のは必然。となれば、広告宣伝費に頼っていた雑誌にとってはツライ現実と向き合うことになる。
取り上げる記事も業界密着型なのはビジネス上必要だったことは理解する。そういう意味では国内のレコード会社がどのような戦略(?)でどのようなターゲットにどのようなCDを販売しようと考えているのかわかるという意味では面白い雑誌だった。しかし、「ガラパゴス化」しているSJに代表される日本のジャズ業界人と違って、音楽ファンはもはや上意下達的な情報は欲していないということである。また、音楽受容のありかたも変化していて、CD以外のメディア、しかも無料で利用できるメディアの台頭も著しい。音楽情報をCDを中心に捉える時代はもはや終わったのではないか。
そうなれば残るのは音楽そのものである。ジャズ自体も多様化、多極化しているのである。アメリカやヨーロッパのある部分だけを見ていても動勢なんてわかりっこない。ジャズはそんなフラットな音楽ではないのだ。ヨーロッパは陸続きだからなにかと繋がっている反面、地域性も濃い。その面白さをどうして伝えないのだろう。違っているということは、それはそれで面白いということがわかれば、と思う。好き嫌いはそれからのこと。
しかし、グローバルに世界中どこでも繋がるこのご時世とは相反して、ひとりの人間が聴く音楽は逆にどんどん狭く狭くなっているような気がしてならない。ある種の好みだと思っている音に類似した音、似たような音ばかりを聴くようになってはいないだろうか。かつてはラジオを聴く人も多かった。なにげなくオンエアされる雑多な音楽を聴くなかで自らの好き嫌いも自覚していったのではないだろうか。かつては特に意図しなくても様々な音楽に接する機会があったのである。しかし、現在は「聴こう」と思ってアクションを起こさないと音楽は耳に入ってこない。これはこれで問題である。このような構造変化にどのように対応すべきなのだろう。日本では沖縄のような地域はともかくローカルな場でそのコミュニティと音楽との結びつきはもはや希薄であり、町興し的な音楽イベントは頑張っているところもあるが、まだまだ住民に根付くまでに至っていないような気がする。
はじめてヨーロッパのジャズ祭に行った二十数年前にいちばん感じたのは、聴衆がとても自然体で音楽を「楽しんでいる」ということ。ライブに行ってもジャズ、とりわけフリー系、即興音楽となると、構えて体を硬くして聴いているのがわかるようなことが多かったので、これはカルチャー・ショックだった。いつからこうなったのだろう、と思う。音楽を楽しむのではなく、オベンキョウしているようない雰囲気、それでは音楽を理解できなくなってしまう。聴いていてシンドクはないのだろうか。リラックスして心を開いて聴く、まずそこから始まるのに…。
話はややズレたが、このような現状のなかで印刷媒体としてのいかに生き残るか、ビジョンとストラテジを立て直さなかった(そもそもなかったのかもしれない)ことがSJが休刊となった大きな要因だろう。ネットメディアはもはや定着し、どんどん更新されている。その中で印刷媒体としての意義もまた見出すことは不可能ではなかったと思うし、その役割はまだまだ残っているように感じるのだ。それにしても「読み物」として面白い記事、しっかり書かれたレビュー/レポートは音楽雑誌では意外と少ない。ある程度知識があることを前提に情報伝達を中心にライターも書いているからだろう。また、ニューアカの時代はとうの昔に終わっているにもかかわらず、思想について語るのではなく音楽について語るのに現代思想のタームを持ち込むことが一般的にどれほど説得力を持つのだろうと思うこともある。
現在は情報がいとも簡単に入手できると人はいう。しかし、それが出来るのは実はそれなりの技を持った人達だけなのであることに意外と気付いていない。与えられる情報が量的にどんどん増える一方で、その取捨選択がきちんと行われなければどんどん情報自体がフラットになってしまうのである。つまり、情報入手が容易ではなかった数十年前と個人が受け取る情報量は大して変わらず、その偏りによってどんどん偏向性が気がつかないままに助長されていっているように思う。情報の公共性、それは今一度見直されてしかるべきと考える。「個人」云々いう人もいるが、公共性の確立と個の自覚は実は密接に繋がっているだろう。その「個」がぼんやりしているのが、よくも悪くも日本人なのである。
と、ついとりとめもなく長々と書いてしまった。それにしても梅雨は苦手だ。そういえば日本文学の妙に湿った感じもあまり好きではない。だが、意外と古典だとしっくりくるのもあるのはなぜだろう。大陸的カラカラ人間にはツライ季節である。せめてエアコンの除湿機能をフル活用することにしょうっと。
by kazuey1113
| 2010-06-19 17:13
| misc.